それでは本題に入ります。長期の連載になると思いますが、書きながらマテリアルを精査していきたいと思います。早速ですが予期しない物も見つかってしまいました。
郵便条例の期間は、明治16年1月1日~33年9月30日です。この期間中は基本的には条文は変わっていないと思います。前回までには書いていなかったのですが、消印で見れば、21年8月31日と9月1日で劇的に変わっているのです。勿論、ボタ・◎から丸一への変化です。条文が一緒なので、意図的に区分していなかったのですが、実例では顕著な違いが有るのです。20年4月1日以前の京都郵便局、以降の京都郵便電信局時代を含めてですが、ボタ・◎時代の付箋には、何条かが明示されていないのです。料金を考えて付箋の文面を読めば、21条か22条かは分かりますし、実務上は厳格に処理を為していたことも確かです。今はまだ、21年9月以前の物しか精査していないのですが、どのタイミングで、条文を明示したかを探りたいと思います。恐らくは、那須浄説さんの大量差し出しがきっかけになって京都郵便電信局が対処したような気がしてなりません。これは今後の宿題です。
ボタ・◎時代の21条後半の受け取り拒否ですが、16年後半から19年まで平均して有るのですが、【在庫は12点】で全てが管内宛でした。無切手封を差し出されても、そのまま受け付けて処理をしたのでしょう。引受部で捨印のN3B3京都を押して、配達部に流します。ここで料金の倍額の旧小判4銭を貼って、未納印を押して、宛所に向かいます。受け取ってくれればそれでケリ、拒否されればU小判2銭を貼り足して差出人に戻します。同一管内なので、先の旧小4銭+後のU小2銭=合計6銭が郵便局の収入になります。何れも、結構な枚数の付箋が貼られていて、最終的には受け取りを拒まれたことと、6銭徴収が明瞭に分かります。未納印には局名が無いのですが、理屈を考えれば、先に4銭・後で2銭というのが明瞭です。このジャンルの物に関しては、紛れも全くなく、捻れる要素も無いのです。条例遵守での扱いです。
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22条を解析いたします。局の扱いは同じです。捨印のN3B3を押して、配達部で旧小4銭を貼り未納消、不在か転居での差し出人戻しです。倍額請求ですが、同一管内なので最初に貼った4銭で完結しています。一般的には、完納便には殆ど受け取り拒否は有りません。意図せぬ不足便でも、受け取り拒否(21条後半)は配達不能での差出人戻し(22条)よりも遙かに少ないのです。でも、切手不貼付の未納便の場合には、発生率は逆転します。圧倒的に受け取り拒否が多いのです。今回の山でグループ分けすれば、同じカテゴリーの中で拒否12点に対して、戻しの【在庫は7点】になりました。何れのケースでも、全て直配達で試配達は見つかりませんでした。
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ここまでは、どうという事もないお話ですが、一点吃驚ネタが有りました。
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五条郵便支局宛ですが、墨×戻しが有るのです。捨印でN3B3京都、旧小4銭貼りで未納消、次がこの4銭を墨で消して、改めて旧小4銭+U小2銭を貼って、一発での未納消、このパターンは管外宛なら正解です。でも五条は同一管内なので、会計上からは、墨消しは起こり得ないはずなのです。単に、五条局の職員が間違えただけなのでしょうか。時代が下がった物を調べたのですが、五条と今出川宛は、管内として扱われています。ミスの起きる確率は高くないように思います。ちょっと気になったのが、五条局の成り立ちです。前回は全国郵便局沿革録・明治篇=日本郵趣出版刊を元に19年4月26日に京都五条橋郵便支局として開局、25年11月16日に五条に改称と書いたのですが、画像でもお分かりの通り、16年8月10日で五条郵便支局の付箋が付いているのです。別の文献を複数当たったのですが、そちらのデータでは13年12月25日に五条橋郵便分局として設置、16年5月23日に五条橋支局に改編、25年11月16日に五条支局に改名になっていました。郵趣出版の本の日付けにも何か意味が有ると思うのですが、現時点では解明できていないのです。ご存じの方教えてください。五条を調べていて気付いたのですが、ここと今出川以外にも、六条支局も管内局の可能性が有るのです。こちらは、14年7月27日に設置、16年5月23日に支局に改定、19年4月22日に廃止です。今回の在庫の内のボタ・◎時代の物には実例が無く、丸一時代には既に廃止されているので残念ながらどういう扱いだったのか検証は出来ません。この先の時代を経るに従っての、管内局の五条と今出川の扱いには注意を払いながら分析を続けて行きたいと思います。理屈に合わない物が見つかっても、例外でしょう、ミスでしょう、でブッタ切れる問題でなく、何か納得が出来る理由が隠れているように思えるのです。マテリアルに貼付された膨大な量の付箋を読んでみて、如何に当時の局員さんが真面目に仕事をやっているのかがはっきりと判るのです。ミスと見える現象にも、何かの理由が隠れているように思えます。